好きなことが得意分野になる校閲の仕事


校閲の仕事は、自分の好きなことが実務で活きてくるケースがあります。映画、音楽、演劇、絵画、グルメ、サブカル、スポーツ、旅行、何でもいい。学問分野も同様です。歴史学、宗教学、民俗学、人類学、考古学、言語学、政治学、経済学、社会学、化学、数学、生物学、物理学、宇宙科学等々、もっとあるでしょう。そのほかIT・金融・労働・福祉・教育・医療関係など、この〈世界〉は多岐に及び、社会におけるそれらの発現の一つとして、数多の書き物が出回っているというわけですね。市場への流通を前に、その制作工程において一定の〈面積〉を占めている仕事の一つが校閲です。


自分に「できること」は多くない、あるいは何もないという人でも、自分の「好きなこと」となれば違ってくるのではないでしょうか。〈好きこそ物の上手なれ〉という言葉もあるように、好きで夢中になれることのある人は、誰に言われなくても対象に向かって突っ込んでいくものですよね。そんな「何か」に関してならば、おのずと知識が増していくものですし、身体的な実践を伴うことである場合には、知識に加えて上達や熟練も見込まれます。そうした過程の只中にあったり、何らかの到達点に至ったり、ある一定の成果を得たりする、すなわち「ただ好きだっただけのこと」が結果として身に付き、自身の特徴的な能力にまで昇華した場合、それは職業人としての〈血肉〉となって、校閲という一つの仕事においても活かされるようになる。校閲ジャンルの「私の得意分野」と化すことがあるわけです。


身近なところで例を挙げれば、競馬歴30年余のフリーランスで、競馬新聞の仕事を長年やっている知人がいます。自分は賭け事と無縁で来ましたので、競馬新聞はどのように校閲すればよいものか見当がつきません。競馬新聞は手に取ったことすらないんですね。ですから仮に話があったとしても、できて校正、間違っても校閲は請けることができません。それから料理が好きで腕前もセミプロレベルではないかという、やはりフリーランスで女性誌複数のレシピ欄の仕事をもう10年以上やっている知人がいます。調理や料理、食材や器具には、外国語も含むさまざまな言葉があるのでしょうし、「ここで『茹でる』はおかしい」「そこで『いちょう切り』はない」「絶対『5分程度』はありえない」等々、突っ込みどころがいろいろありそうですから、これも自分には無理ですね。要するに突っ込みどころがきちんと捉えられない次元ですと、精度の高い校閲は難しいわけです。


もうお分かりかと思いますが、両者に共通しているのは、将来校閲の仕事が請け負えるようになるために、競馬や料理をやっていたわけではないということ。自分を例に挙げれば、英語にせよ韓国語にせよ先述した彼らと同様、校閲の仕事ができるようになることを目的として学んだわけではありません。話の本筋から逸れますので、これについての詳細は省きますが、その態度としてはただただ夢中になり、短くはない期間のめり込んで学び、習得できた結果として、後日、正確には後年に至って、校閲の仕事にも対応できる能力として不足なく通用したにすぎないのです。


ざっくり言いますが、どちらの言語も「出来がいい」という、あくまで他人の評価ただ一つで「校正の仕事やらない?」「これは校閲っていうんだけどやらない?」と持ちかけられ、たまたまそのとき断る理由がなかったために、一つ受け、二つ受け、一か月受け、半年受け、そうしているうちに「経験者になってしまった」というのが私の実相なんですね(笑)――「なりゆき」にしては、実務経験直近15年、通算にして23年というのは、長めのほうかなと思いますがどうでしょう。


人との縁、タイミングというのは、この業界ではかなりありますから、先方に不審な何か、不純な何かが窺われない限り、さらりと乗ってみるのがよいでしょう。不審、不純というのはですね、話を持ちかけてくる、もしくは人を募っている人間の、大概は男性ですけれども、その目つき、表情、態度、物言い、料金、算出方法、支払いに関してほか、作業内容はもちろんのこと話の筋道など、それから人物の背後や経路として語られる「本当のハナシ」のなかに現れ出ます。


そこに淀みや曇りがないか、わずかの曖昧さも残してはいないか、こちらが見通せず、手を出せなくなる可能性がある部分はないかを判断したうえで決めることが大切ですね。女性は特に注意してほしいと思います。真っ当ではない輩は、端からこちらを何の後ろ盾もないフリーランスの女ひとりと見て舐めてかかってきますから、こちらとしてはそんな相手の頭の上をサッと跨いでスッと通り過ぎていかなければなりません。やり取りをしていて少しでも不安を覚える場合には、その時点で断ち切るのがベストです。


話を戻しますが「好きなことも特にはない」と言う人に対しては、子どもの頃や十代の頃に好きだったことはないか、振り返ってみてほしいと話しています。これが思いのほか深いんですよね。成果や評価や価値といった〈大人世界〉の尺度に侵されていない時分におのずと夢中になった何かというのは、その人の〈芯〉のように生きて起きている、あるいは眠っている。多くの場合、眠っています。だから認識できない。「在る」けれども「自覚されない」がために「私には何もない」という誤った評価を下してしまうわけですね。そうしてずっと活かされず、せっかくの貴重な〈生き物〉が、広く明るい外部へと、すなわち社会のなかへと現れ出ぬまま絶えるのは非常に惜しいと思います。


何も見えない白紙の未来のほうではなく、何もかもがあった過去のほうを注意深く訪ねてみることは、時によって有用です。職務上の得意分野に〈化ける〉可能性が高い「遠い昔に好きだったこと」の振り返りと掘り起こしを試みる作業は、今すでに仕事が順調である人にも有益ですが、今後のキャリアについて、さまざまに考えを巡らしている人には、なおのことお勧めしたいですね。



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