出版社の正誤表で誤植の実例を見る


画像:筑摩書房(https://www.chikumashobo.co.jp/blog/news/category/9/)※一部加工


今日は出版社の正誤表で誤植の実例を見ることにします。最初に申し上げておきたいのは、この正誤表を目にしただけで「なぜその誤植が生じたのか」は定められないということ。制作工程に問題はなかったか、校正者のレベルに問題はなかったか、手配担当者による人選に問題はなかったか、作業の細かな部分で問題はなかったか、例えば校正者による指摘や入朱、著者による入朱等の拾い上げやその処理に問題はなかったかということですね。さらには著者と各担当者が置かれた作業環境や条件、例えば健康面や士気、役割の範囲や料金・納期の点で問題はなかったか等々、疑問を差し挟む余地は複数に及んで存在するからです。


本記事ではその内実を明らかにすることを目的にはしていませんし、仮に第三者の自分がそれを突き止めようと試みたところで果たされるものでもありません。言うまでもなく、制作に携わった関係者以外は誰であろうと知り得ないことです。また、それとは別に言えることとして、誤植の多くは時に狭い範囲から時に広い範囲にかけて、当該の誤りの前後を読み通さない限り、その誤植がどのような次元の「落とし」であるのかを定めることができません。


画像:同上 


百歩譲って画像の正誤表を見るだけで捉えることができるのは、ある記述のなかで「充実のために行政基盤」とある箇所は「に」ではなく「の」が適切であったから誤植である(上の画像の赤い矢印1つ目)、「村が停滞しているか」とある箇所は「が」ではなく「は」が適切であったから誤植である(同2つ目)という最小限の事実に限られます。当該の書籍は自分の手元にありません。それは今この記事を読んでくださっている大半の方々と同じでしょう。そうした一つの特殊な環境下で、正誤の別が記された一点、それのみを見る試みだということを押さえていただければと思います。


さて先述の赤い矢印1つ目と2つ目の誤植から予想されるのは、文の流れを摑めていないがゆえの落としではないかということですね。通りの悪い文を通りの悪い文と感知することができれば、作業者が手を出す所です。「に」ではなく「の」、「が」ではなく「は」、そのほかにも「を」ではなく「に」、「から」ではなく「こそ」が適切である等々、文字数は一字や二字にすぎませんが、その一字や二字が不適切である、そうした箇所がある、ひどい場合には散見されるゲラというのは決して珍しくありません。少なくないですね。我々の出番です。活躍のしどころです。ガンバレ校正者。仕事は一生なくなりませんよ(笑)――言いたいことは、それぞれの立場で全うしなければならない務めがあるということですね。


画像に戻ります。次に緑の矢印の所を見てみましょう。「田園都市の需要」ではなく「田園都市の受容」が適切であったから誤植であるというものですが、ここで予想されるのは、文の意味を摑めていないがゆえの落としではないかということ。この誤変換というのもまったく珍しくありません。著者も編集者もいろいろです。急いで入力した、見直す時間がなかった、あるいは見直しはきちんとやった、何度か通読もした、かなり手を入れて磨いたつもりだと、それでも落とすことがあるわけです。


完璧な仕事というのは目指されるべきものですが、人がやることですからミスは出ます。誰しも人間ですよね。万能には程遠く、星屑のように儚く小さき我々が引き起こすミステイクは、世界を見渡すまでもなく日々そこかしこに転がっています。本の制作現場となれば、やはりここも我々の出番ですね。活躍のしどころですよ。ガンバレ校閲者。このようなミスがあるから我々の存在意義が高まります。しかしその我々自身がパンパカ誤植を見逃すとしたらどうでしょう。取引先からギャラ泥棒と悪態をつかれたとして返す言葉があるでしょうか。フリーの校正者、校閲者もいろいろです。本当にいろいろです。突っ込んで言えば、よくそれで仕事やってんな、よくこんなのに仕事ふってんな、バカだな、あたしに頼めばいいのに(笑)そうです、真面目でいい人ばかりじゃないってことです(笑)仕事の出来もまちまちだってことです(笑)取引先が頭を抱えることもあるってことです(笑)常に突っ込んで言うほうが記事が面白いかもしれませんね(笑)


さて本題に戻って。ここは「需要」と「受容」ですが、どちらも誤字ではないので別種の注意が必要になりますね。「需要」が「樹要」であれば単なる誤字として扱えばいいわけですがそうではない。この誤植は、文の意味するところは何か、つまり著者がここで言わんとしているのはどういうことかを捉えられていれば落とさない所です。「じゅよう」と読む音が同一である点で災いするリスクの高い箇所でもある。サーッと読み進めてしまう初歩レベルの失敗ですね。見るのではなく読者のように読んでしまう、その適切ではない速度に吞まれたがゆえの落としではないかと思われます。


語にせよ語句にせよ、文にせよ段落にせよ、それらはすべて「意味」を持つ「表現」であり、その総合として一つの記述物が体を成しています。約物にしても同じことが言えます。例えば読点であれ句点であれ、それらも意味を作り上げているれっきとした表現の一つなわけですね。そして本題の文字について言うなら、たとえ平仮名一字であれ、読点が多い長めの一文であれ、あるいは第一章と第二章のつながりであれ、第三章と第六章の整合性であれ、そのどこを取っても意味を有している記述に相対するとき、作業者が力を抜ける場所はあるのか、抜いても構わない場所はあるのか。ご想像は容易かと思いますが、そうした場所は一つとして存在しません。


もう一度画像に戻りましょう。これで最後になります。中央辺りの青い矢印の所ですが「二〇四頁」は誤りで「二〇二頁」が正しいという誤植ですね。この本のなかの参照頁であるのか、まったく別の書籍や雑誌のなかの参照頁であるのかは分かりませんが、本の内容からして参考文献や引用文献の該当頁を記している後者のほうではないかと予想されます。しかしそれでは次の段落で〈私が言いたいこと〉を書く都合上(笑)話がまとまらなくなりますので、乱暴を承知でここでは前者「この本のなかの参照頁」と仮定し話を進めます。ひと言で言えば、非常にみっともない誤りですね。もちろん前者・後者の別を問わずです。このミスを犯した責任が紛れもなく自分にあると決定づけられた場合、土下座レベルだと思います。制作とは無関係な自分でも見ていて胃が痛くなるような誤植です。


ちょっと想像してみましょう。当該の本を買い求めた読者が早速読み始める。ある所まで来て「あ、204ページに載ってんのか、よーし」と204ページに飛んでいく。目で追っていくものの結局最後の行までそれと思しき記述がない。「えーっと、204だよなぁ」と自分の眼を疑い、もう一度最初の行から追ってみる、なんとか探し当てようとする。この労力、この時間、どう思われるでしょうか。読者はまさか誤植とは思っていない。「間違ってんじゃねーだろーなー」などと本に疑いをかけていない。この信頼。しかしやはり人間ですから、せっかく楽しみに買って帰った本であるだけに少し苛ついてくる。それでも諦めることなく「どこにあんだよー、押さえときたいとこなんだよー」とただ独り、誰の助けも得られぬまま「あるかなー、ないかなー」と今度は付近のページをめくり始める。この熱意。そうしてやっとのこと「あーっ、あったあった!なんだよ、202ページじゃんかー!オイオーイ、時間返せー!疲れたなー、トホホ」などとガックリきてしまうわけですね。


ですからこういう誤植は非常に恥ずかしいもので、ただただ申し訳ないという詫びを入れるほかない大きな失敗の例だと思います。いかがでしょうか。もしも自分がこの本の校正なり校閲の担当者であったなら、あるいは彼と同じ良心的読者の立場であったならと本気で想像してみると、何かしら感じるものがあるのではないかと思います。


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