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実務経験四半世紀でも「できない」ことはいろいろある

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  紙でしか仕事をやらないんですよね。紙でしかできないと言い換えることもできます(笑) 昨今はいろいろやり方があるようですが、今後も紙以外はやる気がないですね。時代にマッチするとかしないとか、何につけ考えないタイプです。 だいたい時代がどうだからこうだからと言われたところで、ヒトは生身。一から十までAからZまで、いちいちいちいち合わせてられなくないですか 。 実務経験もあと1年半ほどで通算四半世紀になりますが、だからといって何でもできるわけではもちろんありません。ジャンルでいえば医学書などもずっとできないままですし、これからもできないままでしょう。校閲が無理ですよ。やる気も全然湧いてこないですね。 むかしむかし校正会社にいた頃、医学書ばかり単独で請けている女性がいて、会社の指示でヘルプに入ったことがあります。ですから経験したことがあるにはあるんですが、分からないことが多すぎて質問ばかりになりました。ヘルプになっていなかったですね。逆に彼女の足を引っ張って大迷惑なだけじゃないかと思いつつやっていました。学校ではない、あくまで仕事なわけですから、なんだか役に立っていなさすぎて「恐縮大会」って感じでしたね。 それでも彼女は親切に、よく教えてくれました。「独立、在宅、独り仕事」もいいですが、校正会社に属して働くことの利点はこういうところにあると思います。仕事と直接には関係のない話もいろいろ聞かせてくれたりして、いい経験になりました。今振り返ると仲間の出現というか、彼女にとってはそんな新しい存在が新鮮で、喜びのように感じられたのかもしれません。一人で充分やれるけれども、二人以上で組んでやる仕事もオーケーだし、教えることも苦ではない。それはそれで別種の楽しさ、面白味があるという受け止め方ができる人だったのかなと思います。 そんな貴重な機会に恵まれたにもかかわらず、私がそのとき学び得たのは「医学書は絶対無理だ」と自覚したことぐらいでした(笑) ただ、 「これの校閲ができるのは、キャリアとして完全にパワーだなあ・・・」とは思いましたよね。やれる人が少ない分野は存在価値が高いうえに、働き方さえ外さなければ報酬も高くていいですね。 超高齢社会の日本、世界に誇る長寿の国においては、需要も右肩上がりなのではないでしょうか。「紙でしかやらない」とか言っていないで(笑)機器に強い人や自信のある

校閲に必要な三つの能力

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  Photo by Shumilov Ludmila on Unsplash 仕事は大方書籍の校閲だと言うと「すごいですね」と返ってくることがある のですが、おそらくそれは、なんでもかんでもよく知っている、ものすごい知識量を持った人なのだと誤解するせいではないかと思います。なんでもかんでもよく知っている人など、この世にひとりもいないはずですし、自分を例に挙げれば、なんでも知っているどころか、知らない、分からない、興味もなければ関心もないことのほうが圧倒的に多いですね。 校閲に必要なのは第一に「ここは正誤を確かめないとだめだな」と〈問題の山〉の部分が百あれば百すべて拾い上げる能力。第二に「それを確実にするために当たるべきはここだな」と〈解答の家〉のある場所に誤らず辿り着くか、端から正解を知っているかの能力。第三にそれらを提起する際、編集者と著者が再考・撤回・修正等へと導かれうる適切な言葉を用いて的確に伝える能力。これはコミュニケーション能力とも言えますね。 最後の第三については、こちら側の指摘の根拠となった参照資料を提示するのが良いと思います。目にすれば明らかですから実効性がありますし、編集者と著者が改めて調査し、確認をする作業に費やす時間と労力を省くこともでき親切です。 もう少し細かに言えば「ここはこうですよ、そこはこうですよ」と、あくまでこちら側が出した結論のみをゲラに書き込むような〈言いたい放題〉の在り方では、たとえそれが正しくても先方とて大人ですから、言われるがまま即座に応じることはなかなかできないものですよね。「これのどこが違うの?」「何を根拠に言ってるの?」という反応は、自分の身に置き換えても、ごく自然なものだと思います。先述した「コミュニケーション能力」は、ここのところを指す重要な部分となります。 「伝えたい、分かってほしい」――そうであるなら口だけではなく態度で示す、そうと言い換えることもできるでしょう。誠実さですね。「そのぐらい言わなくたって分かるでしょう?」という手前勝手な在り方は、どんな仕事においても、また様々な人間関係においても「それでは通らない」幼稚で厄介なものだと思います。 先に挙げた三つの能力が求められ続ける一冊の本の〈記述の海〉を単独で進み、大波小波をかきわけながら最後の最後の一行まで気を緩めることなく集中し、優れたフォームと極力速

フリーランスの泣き寝入りは発注企業の思う壺

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年明け最初の投稿になります。今年もよろしくお願いいたします。 本日は、2022 年1月27 日配信のニュース記事をひとつ紹介したいと思います。 上の画像はご覧のとおりNHKですね。いろいろ大変な昨今ですが、フリーランスの皆さんも非常に厳しい状況にある方が少なくはないでしょう。まずはササっと「泣き寝入り」の文言を安い辞書から削除することにいたしましょう。校正用語でいえば「入朱」ですね。赤ペン1本を取り出して「トル」と書き込むだけでOKなんです(笑) 赤色の囲みを見てみましょう。厚生労働省等がフリーランスを対象とする相談窓口を開設しているのですね。名称は「フリーランス・トラブル 110 番」― なるほど「110 番通報」ということですね。ひゃくとーばん・つーほー、ですね、分かりました、覚えておきましょう。記事によれば、2021 年 11 月末までの1年間で寄せられた相談件数はおよそ 4000 とのこと。政府も対策強化の検討に入っているそうですから、おそらく本件は推進されるものとみてよいでしょう。 緑色の最初の囲みを見てみますと、企業などから個人で仕事の発注を受け、報酬を得ている人は、2019 年時点で約 170 万人に上るとのこと。「ああ、私もそこに入っていますよ」と一言。同時に、労働人口全体から見れば依然として少数派、マイノリティなんですね。このマイノリティというものですが、そこに目を向ける、威勢の良い言葉を使うなら、そこに突っ込んでいく政府であるか、いや「イキ」「ママ」(校正用語)とする政府であるかという点は、21 世紀現代において一国の成熟度を測るモノサシのひとつといえるのではないかと思います。 次に緑色の2番目の囲みですが、ここはすべて引用しましょう。 フリーランスは雇用契約を結んで働く労働者のように定期昇給やベースアップなどで収入が増えるということはなく、法律で定める最低賃金も適用されません。 そのとおりですね。知っていますよ、当事者の私はもちろんのこと。しかしこれは私を含むフリーランスの人々のための文章ではありませんね。派遣社員、契約社員、パート・アルバイトで働く人材以上に「雇用の調整弁」としてフリーランスをいいように扱い、倫理や人道、正義といったものからは遠く離れた当該企業の全関係者が読むためにある文章ではないでしょうか。 2022 年1月14日付「ユニオ

書籍校正者は「漢字博士」か?

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Photo by kaori kubota on Unsplash 「書籍の校正や校閲の仕事をしているような人は、およそ知らない漢字などないのだろう、やたらに画数の多い〈薔薇〉のような漢字もササッと書けたりするのだろう、何と読むのか分からないような難しい漢字でも、薔薇より画数の多い漢字でも普通に書くことができるのだろう、まさに漢字博士ですよね、あ、漢字検定なんかも1級とかお持ちなんでしょう? いやお持ちでなくてもね、パッと受験したらパッと受かっちゃうんでしょうね、あの、やっぱり大学は国文学科をお出になっていらっしゃる?」 いいえ、そんなことはありません(笑)このサイトでも何度か記事にした放送大学に編入学する前のその昔、私は早稲田大学第二文学部の学生だったのですが、中退のうえ専攻は歴史学でしたし、漢字検定などは1級どころか受験したことすらないんですね。校正・校閲の仕事をしている人間が国文学科を出ているとか、とりわけ文学を好んでいるといった顕著な傾向などというものは、少なくともフリーで働く人間の間には見られません。言い換えれば、国文学を専攻していなくても文学に疎くても、校正者や校閲者にはなれるということです。 例えば本を読むより釣りやゴルフや料理が好きだという人もいますし、大学で心理学を専攻した人が、オフィス用品の分厚いカタログ校正に取り組んでいたりもします。消しゴムやクリップやセロハンテープや蛍光ペンの写真と価格と商品名等を確認し続ける校正作業で、日に軽く数万を稼いでいたりもするんですね。フリー校正者のバックグラウンドは実に多様です。 私の職歴は直近  13  年、それよりかなり前にも校正の仕事をしていた時期があり、通算  21  年ですので短くはないほうに入るかと思いますが、ある時期まで、こと漢字に関しては弱かったんですね。もともと日本語が好きではなく、 10  代の終りごろから外国語のほうに大きな比重をかけていました。日本語以前に日本自体が好きではなかったので反動が大きかったんですね。英語にフランス語、韓国語にドイツ語とやたらに手を伸ばしていました。 結果、校正・校閲の仕事でも対応可能な実力がついたのは英語と韓国語の二つだけですが、英語一つにしましても「ある程度できる」ぐらいで「外国語がよくお出来になるんですね」ということになってしまう国ですから、英・韓はも

公正取引委員会と在宅校正者の長電話

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Photo by Vinicius "amnx" Amano on Unsplash 以前、公正取引委員会の希望で電話ヒアリングに応じたことがあります。所得補償保険の掛け金が優遇されることただ一点が魅力で数年前に加入した団体「一般社団法人プロフェッショナル&パラレルキャリア・フリーランス協会」から、ある日1通のメールを受信、協力要請のあった任意のアンケート調査に回答、返信したのが事の始まりでした。このアンケート調査では末尾のほうで「回答後に公正取引委員会から調査協力の依頼があった場合に応じるか応じないか」という趣旨の質問があり、私は「応じる」と答えました。同じ回答をした複数名の中に私も加えられたということでしょう、当該機関担当者から初めて直接のメールを受信したとき、自分のフルネームの近くには「No.△△」という形で2桁の数字が併記されていました。 そのメールには「この調査協力の依頼は、あくまで調査が目的であり、フリーで仕事をしている個々人に生じた、あるいは生じている個別の問題について相談を受けるものでもなければ、その解決に助力するものでもない」という趣旨の断り書きがありました。「ごちゃごちゃした話は聞きませんからね。こちらの知りたいことだけを話してくださいね」ということでしょう。加えて「電話で話す時間は 30 分程度」という趣旨の文言も記されていました。「長話はお断りです。こちらが聞くことだけに答えてくれれば 30 分で足りますからね」ということでしょう。 しかしこちらが何も言っていない、尋ねてもいないのに、依頼者側があれこれ条件を付けてくるというのもおかしな話で、それをまたおかしいとも思わずに平気で言ってのけてしまうあたりがさすが霞が関ですね。世間知らずぶりが炸裂しています。この二つの「予防線」は私にとってどうでもいい事柄でしたが、随分と用心深いものだなという印象を受けました。 東京・霞が関地区  出所:国土交通省ホームぺージ(https://www.mlit.go.jp/gobuild/kasumi_kasumi_kongo_kasumi_kongo.htm) だいたい国が助けてくれるものなら、とっくの昔に助けられていたはずなんですね。いったいどれだけ一人で闘ってきたか。何の後ろ盾もない個人がたった一人で企業を相手にするわけですからね。です

嫌いな言葉は縁の下の力持ち

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昔から校正者がよく言われる言葉に「縁の下の力持ち」「陰の立役者」というのがありますけれども、これがとにかく大嫌いな表現なんですね。虫唾が走ります。この記事を出版社の社長や編集者、それとブラック編集プロダクションやブラック校正会社の方々が運よく見つけて読んでくださるといいんですがね 。頼みますよ、あ!そこのあなたよ、そこの! 言葉だけの話なら別ですが、本当にそう思っている人間がいるのが困るんですね。不快でありいい迷惑でもある。だいたい「縁の下の」ですとか「陰の」というのはね、考えたらものすごく失礼だってことに気づきません? あ、気づかないです? それではなおのこと話を続けなければなりません(笑)あのですね、そうやって陽の当たらない裏っかしのほうですとか、湿気の強い部屋の奥のほうですとかにね、校正者を押し込むのはいい加減やめなさいってこと。私たちは縁の下になどいやしないし、陰に潜んでいるわけでもありません。あなたがたと同じ土俵にいることをあなたがたが認めないというだけの話です。頭大丈夫ですか? 編集と校正の「主従関係」 ― 積年の問題ですけれども、ここをカギ括りにしているのは編集者と校正者が「主」と「従」の関係にあるとは微塵も思っていないからなんですね。それから校正者、校閲者でもいいですが、こちら側にも一定の「問題」がある。なにせ口下手、自虐的、社会性を欠き「言わない」「主張しない」もちろん仕事内容、料金に関することですがボランティアじゃないんですから黙っていないで挑むべきだと思いますよ。プライドがあるならそうすべきですし、そうしないではいられないはずです。それとも プライドが持てるほどの実力がありませんか。プライドを保てるだけの実績を積んでいませんか。プライドで自身を支えられるほど熱心には仕事をしてきていませんか。ね、そういう「問題」というものがあります。この件はいずれまた記事にするかとも思いますので、今日のところはこのへんで。 *****