フリーランスという選択

Photo by Lubo Minar on Unsplash


記事のタイトルを考えたときに「フリーランスという生き方」という安直なフレーズが浮かんだものの、すぐに却下したのは偉そうだなと思ったからです。だいたい生き方などというものは、実際語りきれるのかという疑問もにわかに生じましたのでね。その昔「オレ流」というのがありました。当時プロ野球選手だったある有名人から発生した言葉ですが、これなども穴があったらこちらのほうが入りたくなるぐらいに気恥ずかしい。ところが最近になって、今春から配信を開始したというこの方の動画サイト名に、懐かしくも再び「オレ流」の文字が躍っているのを目にしてしまいました。ただ単に相性が悪いのでしょう。女とはいえ江戸っ子の私からしますと、いい歳をした大の男がベラベラベラベラいつまで経っても「オレ語り」を展開するのは、美しい男らしさと遠く離れて整合しないように思われます。


ご覧の通りタイトルは「選択」という言葉に落としましたが、これは自分にとって実際にも選択であったことが大きいですね。在宅校正者としてかれこれ10余年、会社勤めという主流の働き方に終止符を打って以降、短くはない時間が経過しました。行きも帰りも満員の電車で疲弊するのが日課の一つという、ごく一般的な社会人の在りようとは無縁の暮らしです。タイムカードもなければ、給湯室で上司の悪口に花を咲かせることもなく、アフターファイブでまずい酒を吞まされることもなければ、銀座のコリドー街でちゃらい男に引っかけられることもないレモンのように爽やかな日々。


目を奪われるような種々の煌めきからは遠い半面、目に障って仕方がないガラクタのような人間やろくでもない出来事に煩わされることも大方ないと言ってよい「まるでここは小宇宙」のごとく単独の、しかし自身の居場所を確かに捉えることができる時空間。たとえ小さくともまとまり、自らの制御と掌握が利く日常が、いいか悪いかを別とする現在のライフスタイルです。そんな暮らしぶりにご関心を寄せる方々には、今回の記事も何かしらお役立ていただくことができるのかもしれません。

 

ご承知のとおり、新型コロナウイルス感染症の影響により、いまだ世界は平常の暮らしを取り戻しきれてはおらず、さらにはロシアによるウクライナ侵攻等も重なり、ますます先が見通せない状況に陥っています。そうした中、世間一般には脆弱な立ち位置にあると見なされがちなフリーランスは、非正規労働者の枠にも入らない働き手という側面がある一方で、例えば「残業代の未払いは許さない!」と訴える以前に残業自体がない、「それはパワハラだ!」と憤る以前に上司が一人もいない、「ボーナス半減だって」とうろたえる以前にそもそも賞与がない、完全在宅稼働ともなれば「セクハラ同然よ!」と激怒する以前に男性労働者との対面接触がまるでない等々、とにかくない、ない、ない、ない、ないの「ないもの尽くし」という、それがこの現代社会にあって一人ポツネンとただひたすら机に向かい、一つの仕事をこなしては、きっかりその分の報酬を得る連続をして生計を立てているフリーランスの在りようなわけですが、しかしこの「ない」ことの恩恵、「ない」ことの幸福というものも独立以前には得ることができないものでした。総体的にはストレスフリーな職業生活を実現できている現在の暮らしは、浮世離れ自慢の一つにも挙げられる自身の財産となり得ています。

 

申し上げたいのは、想定外の時代状況に見舞われたことを契機として、はたして脆弱とは何か、本当の意味での脆弱とはどういうことかと熟考する態度が一つ生まれてもよいのではないか、そうした思考の導入ですね。いかがでしょうか。脆弱、それは具体的にどのような労働者を指すか、どういった職業や働き方を指すかということですが、近年ほどそれが問われている時代状況はないように思われます。

 

今から9年前のこと、過ぎれば早いもので2013年に公表された英国オックスフォード大学の当時准教授マイケル・A・オズボーンと同研究員カール・B・フレイによる「雇用の未来」という論文に遡りますが、大変な衝撃をもって世界に受け止められたこの研究成果についてはご記憶の方も少なくないでしょう。

出所:Oxford Martin School ホームぺージ
https://www.oxfordmartin.ox.ac.uk/publications/the-future-of-employment/


同論文から発せられた「10年後になくなる仕事」というフレーズはインパクトがありましたね。非常にリアルで具体的、研究者を除く市井の人々に訴えかけるには充分すぎるほど当たりのフレーズでしたが、この一件を以後どれだけの人々が心に留め、思案、判断、決断し、実際的な行動に踏み切ったのか、その全体像を推し量ることはできませんが、「さて私自身はどうであったか」という問いへの答えは、誰しもが自身の内部に持ち得るのではないでしょうか。

 

もちろんこの論文が俎上に載せたのは、従来人間の手によって行われていた仕事が機械に取って代わられる(コンピュータリゼーション)と予想される職業であり、現下の感染症拡大や他国間の軍事紛争によって失われると予想される職業を分析・列挙したものではありませんが、人工知能(AI)やロボット、その共進化といった「あるリアル」の出現が想定外であったそれより前の時代における悠長さを思えば、未知のウイルスや国家間衝突等の発生に起因し、危うさが増す職業の現出という状況もまた、2020年初頭もしくは2022年初頭を迎える以前には想定外であった点において変わりがないと見ることもできるわけです。

 

さらに言えば、この論文の範疇を超えて生起している問題は「10年後になくなる仕事」即ち総計702に上る職業それぞれの確率数値に留まらず、「雇用される身」と「雇用されない身」の境界線が消失とまではいわずとも「雇用される身」という前者が絶対的なものではなくなっている現象であるように思われます。具体的には正社員といえども賞与はカット、もしくは大幅な減額、テレワークの推進で出勤日数を抑えることを打ち出す勤務先の方針転換によって、それまでは収入の一部であった貴重な残業代も消えうせる等々の変化ですね。

 

こうした「災難」の矛先を勤務先企業や現存の社会に対してのみではなく、自らへと向かわせ捉え直す、ある意味では一つの「好機」と受け止めることもできる。そうは考えられないでしょうか。脆弱、その対極にある強靭なるものもまた、自身へと追求していく道があるのではないかという切り替えの導入、その検討ですね。嘆く、失望する、絶望する、狼狽する、落伍する、それらは「雇用される身」であることの絶対的なるものに対する単なる思い込みに端を発しているという解釈の仕方もあるのではないか。今さら会社を恨んだところで何一つ始まらない、解決しない。そこで、根底にある勤務先と自分、企業と個人の間に横たわる依存の関係を捉え直してみる、より強い言い方をするなら問題視をする試みがあってもよいのではないかと考えています。すべてはもちろん自分自身の幸福のためにですね。

 

会社がある(あってくれる)、雇用される身である(雇用してくれている)ことの「絶対」が、決して「絶対」なものなどではない、その「絶対」にすがっている自身の「願望」にすぎないのだと認め知ること。現在の手痛い状況は、自身の単なる「願望」に依拠する依存の関係によって生じている苦悩や困難であるとの見方を起点に据える。問題の解決はその起点をして始まり、さらには具体的行動に踏み切ることで新たな道も拓けてくるのではないでしょうか。

 

フリーランスという立ち位置が、それをもってイコール脆弱なのではない。正規労働者、非正規労働者という「当たり前のように在る椅子」に座ることをもってイコール強靱なのではない。よりよく生きるための「オレ流」もしくは「アタシ流」冒頭ではこき下ろしましたが、そうした選択肢もあるのだという発想の転換をもって獲得しうる新しい暮らし方ひいては生き方を創出することができるのではないか。その例として一つ「フリーランスという選択」を提示したいと思うところですがいかがでしょうか。何かありましたら〈CONTACT〉に記載のメールアドレスまで、ご相談のメールをお送りください。キャリア相談の一環ですので料金は不要、ご送信の際は匿名でも結構です。


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