和暦・西暦、併記の場合は要注意




校閲ともなればどこもかしこも要注意で、和暦や西暦その併記に限ったことではないのですが、この部分の誤植というのは致命的ですね。先日の記事で触れた参照頁の誤植と同様、読者に対して著者をはじめとする制作側の作業者に反論の余地がない、平謝りパターンに挙げられるものと思います。


上の画像は長年使用している和暦・西暦の早見表で、永禄7年(1564年)から令和25年(2043年)まで載っています。ずいぶん前にネットで見つけたサイトをプリントアウトしたもので、使い勝手がいいんですね。当該のサイトは削除されており、残念ながらここでご案内することができません。


「ああ、そーか、ネットから消えることも当然あるわけだな」と気がついたのが吞気なことに数か月前。どこか他のサイトでいいのはないかと検索してみたところ、幸いすぐに見つかりました。下の画像がそのサイトをプリントアウトしたうえ、自分のいいように切り貼りして作り替えた〈新・早見表〉です。(https://seireki.hikak.com/y1400.php



こちらは応永7年(1400年)から令和15年(2033年)まで載っているので〈旧・早見表〉よりも150年ぐらい長いバージョンです今日は先般の投稿記事と同様、筑摩書房さんのホームページに掲載されている正誤表から、和暦・西暦併記の記述、その誤植の実例を取り上げたいと思います。


画像:筑摩書房(https://www.chikumashobo.co.jp/blog/news/category/9/)※一部加工


まずはオレンジの囲みから。歴史上の出来事の発生年か何かでしょうか、とにかく1年違っているという誤植です。和暦が明治22年で西暦が1889年とあるのは誤りで、正しくは明治21年に1888年。「たった1年ぐらいどうってことないじゃないか」とは決してならないのが世に出る活字の世界であり、校閲者にとって言えば、そこに手を入れるのが仕事そのものであるわけです。1年にせよ2年にせよ、誤りは誤りということですね。さらに悪いのは、この誤植が1か所にとどまらず4か所に及んでいる点です。暦に関しては「一般に不詳」の実際もありますが、その場合は不詳だと記されていれば問題がないわけで、不詳であるのと誤りであるのとでは言うまでもなく異なります。


次にまいりましょう。グリーンの囲みのところですが、これはみっともない。土下座レベルを上回る誤植だと思います。江戸末期に生まれ、明治、大正を生きた森鷗外を取り上げている本のなかで、1970年代と1980年代が出てくる、そこを押さえていない、押さえられないというのは丸刈りレベルではないでしょうか。それではパワハラ事案になってしまいますか(笑)――ここは1900年代ではなく1800年代ですから「9」と「8」の1字が違っているという誤植ですね。


百歩譲ってここも1か所の見逃しであれば「本当に申し訳ありません。以後充分気をつけます」の平謝り、もうそれしかないですしね、世に出てしまっているわけですから。ところが全部で6か所に及んでいます。この誤植は作業者が見ていないも同然、読んでいないも同然ですね。著者、大丈夫でしょうか。編集者、大丈夫でしょうか。校閲者、大丈夫でしょうか。特に校閲者。最後の砦の校閲者がここを見逃したのだとしたら、そんな品質で堂々ギャラを受け取れるものでしょうかね。


当該書籍の校閲はフリーランス個人に預けたのか、編プロ・校プロ営業担当者に放り投げたのか、あるいは自社の社員か非正規社員か、もちろん知り得ませんけれども、フリーの校閲者が個人で預かった案件であるとしたら、最低限の仕事すらしなかったと言って過言ではない。もちろん6か所すべてに校閲者は指摘を入れた、もしくは赤を入れた、にもかかわらずそのすべてを編集者も著者も拾わなかった、いや修正はかけた(つもりだった)が実際には反映されず、そのままいってしまったということなのか、そうであるなら校閲者にはまったく非がありません。


話が逸れるようでそうでもない話ですが、フリーの校正者・校閲者は業界として基本ギャラが安いという大問題があります。異次元に安い。岸田の異次元どころではない(笑)――ここが長いこと解消されていない現実があります。それが基点となって「だから仕事をかき集めないとね、こっちは食べていけないんですよ」という態度も出てきてしまう。それだとどうしても仕事が粗くなりますからダメなんですけどね。だったらギャラを上げさせるか、先方が応じないならそういう仕事は蹴る、そのいずれかにするのがベターだと思います。フリーの人間とて職務上の倫理と無縁ではありません。


ただ付言すれば、ベターではなくベストな在りようがある。高度な能力が要求される校閲業務を担うフリーランスに対して、発注企業はその能力や実績、取引年数等、総合的な貢献度に見合ったギャラを支払うという姿勢で臨む、それを当然の在りようとする体制を確立するというものです。「いや、校正・校閲はあくまで編集の補助的業務ですから」ではなくてですね。


だいたい補助的とは何でしょう。どこを指して補助的なんでしょう。その程度の業務だと言うなら編集者一人でとっくの昔にやれている話ではないでしょうか。しかし実際はどうですか。分かっていて言っているのですが(笑)できやしないじゃないですか。馬鹿にして言っているのではありません。馬鹿にしているのは編集サイド、その版元のほうだと言っているんです。校正者・校閲者というのは特有の「眼」を持っているんですね。そのように養われ蓄えられていく。そこが決定的に編集者とは異なっている。その「眼」に依拠する固有の力は完全に独立的で自立的な職能です。


自分の場合、不当に安い仕事は請けません。仮に経験が浅く能力も低いうえ特別熱心ではなくても、毎日会社に出勤さえしていれば決まった給料が手に入る点において確実に恵まれている正規労働者と異なり、フリーランスは高い能力を有することが大前提なうえ「時は金なり」の一点です。安い仕事は時間のロスが大きすぎるので「お仕事を頂けるだけでも有難い」とはなり得ません。


「軽犯罪並みの安さですよ。相場ご存じないです? それともしらばっくれてます?」――この程度の口は当然きいてきました。振り返って大きめの発言で記憶しているものには「私はあなたの部下でもなければ女房でもない。そうやって甘えないように。上司に電話よこさせなさい」というのがありますね。上司からもちろん電話がありました。「ここまでの口をきかせないように教育し直してください」のひと言。いやいや、好きできいた口ですけれどもね。


ただし、仕事の出来がどうであれ「やるにはやった」以上、発注企業としても「これだと払えませんね」という暴挙には出にくい弱みがある一面の事実にも触れておくのがフェアでしょう。そもそもそのミスに気づくまで一定の時間がかかり、工程が進んで初めて「やってくれたな」と作業の実態が見えてくるタイムラグの仕方なさがある。フリーの人間はそこを突くような真似をしてはならないですね。それをやると次がないという分かりやすい形で結局自分に返ってもきます。請ける、返す、ハイ1本稼いだオシマイと、居直り傾向の度合いが強いフリーランスも少なからず存在することは挙げておきたいと思います。


さらに言えば、その手のフリーの人間と一緒くたにされるのは少なくとも自分は我慢なりませんね。先述したようにゲラに現れる力量を柱とする総合的貢献度でギャラの高低は決めてもらいたいものですし、適当な仕事を平気で返すような「やりドク」な人材はとっとと切ればいい。真面目な人間が馬鹿を見ると思ったことはありません。ひたすら真面目にやってきて今があります。そういう人材にこそ高額のギャラを払ってでも「いい仕事の本」を世に送り出すのが望ましい。それでも正規労働者と比べれば安上がりなんですからね。互いの関係性のうえでも理想的、ひいては出版業界にとっても理想的だと思います。揉め事や問題というのは自然発生的に生じるものではなく、あくまで人為が生み出すものです。ろくでもない誤植を回避する手立ては様々にあるのではないでしょうかね。



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「出版社の正誤表で誤植の実例を見る」(2023年5月28日投稿)






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